日本最古の貨幣はどっち?富本銭と和同開珎の真相と教科書の謎
学校の歴史の授業で「日本最古の貨幣=和同開珎」と暗記した記憶を持つ大人が、現代の子どもの教科書を見て息をのむ場面が増えています。ページを開くと、そこには聞き慣れない「富本銭」という文字が堂々と刻まれ、日本最古の鋳造銭としての解説がなされているからです。
かつて定説とされていた歴史的事実が、なぜこれほど劇的に覆ったのでしょうか。奈良の片隅で起きた世紀の大発見から、古代国家が描いた通貨政策の壮大な構想、さらには「まじない用」と揶揄された論争の決着まで、2026年現在の最新考古学知見と教科書の記述変遷をもとに、その決定的な真相を解き明かします。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:発行年代は富本銭(683年頃・天武朝)が和同開珎(708年・和銅元年)より約25年先であり、現在の教科書では富本銭が「日本最古の鋳造銅銭」として記述されている。
- 要点2:教科書の記述が変わった最大の転換点は、1999年の奈良県「飛鳥池遺跡」における国家管理の鋳造工房跡と大量の富本銭・未完成品の出土である。
- 要点3:かつて有力だった「まじない銭(厭勝銭)」説を退け、現在は実質的な「流通貨幣」としての性格が学術的に確立。さらに前段階として「無文銀銭」の存在も位置づけられている。
【真相解明】日本最古の貨幣はどっち?教科書の記述が変わった決定的理由
「日本最古の貨幣は富本銭と和同開珎のどっちなのか」という長年の問いに対し、考古学および歴史学の最新合意に基づく結論を下すなら、「鋳造された銅銭として先に誕生したのは富本銭、国家的な広域流通に成功した最初の貨幣は和同開珎」という整理が最も正確です。
昭和から平成初期にかけて、学校教育の場では「708年、武蔵国から銅が献上されたことを祝して元明天皇が元号を和銅と改め、和同開珎を発行したのが日本最初の貨幣」と画一的に教えられてきました。当時の考古学会でも富本銭の存在自体は江戸時代の古銭収集家の記録などで知られていたものの、出土数が極めて少なく、発行年代を裏付ける層位的な証拠が皆無に等しかったため、「後世に作られた記念品や模造品ではないか」と疑問視されていたのです。
この力関係を根本から覆したのが、1999年1月に奈良文化財研究所が発表した奈良県明日香村「飛鳥池遺跡」の発掘成果でした。天武天皇の宮殿跡に近いこの遺跡から、富本銭そのものだけでなく、鋳型(銭笵)、溶けた銅を入れた坩堝(るつぼ)、切り離す前の「枝銭」など、官営の貨幣鋳造工房が存在した決定的な物的証拠が次々と出土したのです。
出土した地層は7世紀後半の天武朝期(飛鳥時代後半)に厳密に特定され、『日本書紀』の天武天皇12年(683年)4月条にある「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いること莫れ」という詔(みことのり)に記された「銅銭」こそが富本銭であることを完全に立証しました。これを受けて文部科学省の検定教科書は順次改訂され、現在では「最古の鋳造銅銭=富本銭」「広範囲に流通した最初の貨幣=和同開珎」という二段構えの記述へと進化を遂げています。

富本銭と和同開珎の決定的な違い|発行年代比較と基本スペック
外見はともによく似た「円形方孔(丸い形の中心に四角い穴)」を持つ両者ですが、その背景にある思想、原材料、そして国家としての思惑には明確なコントラストが存在します。客観的データに基づいて両者の相違点を整理しました。
| 項目 | 富本銭(ふほんせん) | 和同開珎(わどうかいちん/かいほう) | 編集部の見解・分析 |
|---|---|---|---|
| 発行開始年代 | 天武天皇12年(683年)頃 | 元明天皇・和銅元年(708年) | 富本銭が約25年先行して誕生。 |
| 初出の正史記述 | 『日本書紀』天武12年の銅銭使用令 | 『続日本紀』和銅元年の銀銭・銅銭発行条 | 文献上の記述と発掘層位が双方完全に合致。 |
| 文字・意匠の由来 | 上下に「富」「本」、左右に七つ星(七曜) | 時計回りに「和」「同」「開」「珎」 | 富本銭は道教・儒教思想、和同開珎は唐銭を模倣。 |
| 金属組成 | 銅約65〜70%、アンチモン約20〜25% | 初期は高純度銅(後に鉛混入が進む) | 富本銭のアンチモン添加は融点を下げ流し込む高度な工学技術。 |
| 主な出土地域 | 飛鳥池遺跡、藤原京跡、平城京跡など畿内中心 | 東北から九州まで全国各地の官衙・寺院跡 | 和同開珎は全国普及を企図、富本銭は中央集中的。 |
| 教科書の位置づけ | 「最古の鋳造銅銭」 | 「全国的に流通した最初の公鋳貨幣」 | 両者の役割と意義を明確に棲み分け記述。 |
富本銭の表面に配された「富本」の二文字は、中国古典『東観漢記』にある「民を富ましむるは国の本(もと)なり」という為政者の哲学に由来すると解釈されています。左右の七つの星(七曜・北斗七星)は道教思想における宇宙の秩序と加護を象徴しており、単なる取引手段を超えた国家理念の表明でもありました。
対する和同開珎は、当時東アジアの基軸通貨であった唐の「開元通宝」を強く意識した造形です。文字の配置から規格に至るまで国際標準に準拠しており、律令国家として東アジア世界に名乗りを上げる外交的プライドが色濃く反映されています。
【流通貨幣説 vs 厭勝銭説】まじない用から国家政策への評価変遷
飛鳥池遺跡の発掘直後、学界を二分する激しい論争が巻き起こりました。それが「流通貨幣説」と「厭勝銭(えんしょうせん=呪術・まじない用の銭)説」の対立です。
懐疑派の研究者たちが提示した論拠は、「一般庶民の集落跡からほとんど出土しない」「左右に星の文様が刻まれており、中国古代の吉祥銭(縁起物)に酷似している」「死者の鎮魂や建物の地鎮祭に埋納されていた事例がある」という点でした。古代において銭貨が魔除けとして使われた例は多く、富本銭も富貴を祈願する儀礼用のメダルに過ぎず、実質的な経済活動には用いられていなかったのではないか、という見解です。
しかし、その後の出土資料の精査と関連遺物の化学分析によって、この「厭勝銭限定説」は大きく後退することになります。飛鳥池遺跡の工房規模は国家主導の一大コンビナートであり、推定数十万枚規模の鋳造能力を持っていたことが判明。さらに、実際に流通して角がすり減った「使用痕」のある個体や、削り取られて重量調整された痕跡が確認されたのです。
天武朝当時のヤマト政権は、日本初となる本格的条坊制都市「藤原京」の建設という国家的一大プロジェクトを推進していました。数万人規模の工夫を動員し、資材を調達するためには、現物支給(米や布)だけでは運搬・管理コストが膨大になります。そこで、国家事業に従事する労働者への賃金支払い手段として発行されたのが富本銭であったという解釈が、現在では最も有力視されています。宗教的な儀式で埋納された事例についても、「国家が定めた公的な富の象徴だからこそ、神仏への最大の奉納物として用いられた」と説明でき、流通貨幣としての本質と矛盾するものではありません。

一般に知られていない盲点とネットの誤解|実は「無文銀銭」がさらに古い?
ネット上の歴史コミュニティで時折見られる混乱が、「富本銭より前に無文銀銭があるのだから、最古の貨幣は無文銀銭ではないのか?」という議論です。この疑問は考古学的に極めて核心を突いています。
実際、文字の刻まれていない銀の板である「無文銀銭(むもんぎんせん)」は、富本銭よりも前の7世紀半ば(推古朝〜天智朝頃)の遺跡から多数発見されています。『日本書紀』天武12年の「銀銭を用いること莫れ」という記述は、当時すでに民衆や貴族の間で銀銭が流通していたからこそ出された禁止令です。
ではなぜ、教科書では無文銀銭を単独で「日本最古の貨幣」と大書しないのでしょうか。そこには貨幣の定義に関わる重要な学術的境界線があります。
- 無文銀銭の性格:文字(銘文)がなく、素材自体の銀の重さによって価値が決まる「秤量貨幣(地金貨幣)」に近い存在。国家が公的に価値を保証して発行した証拠(文字刻銘)が希薄である。
- 富本銭の性格:文字を鋳出し、素材価値(安価な銅と微量のアンチモン)以上の法定価値を国家権力が付与した、日本最初の「公鋳文字貨幣(名目貨幣)」である。
もう一つの盲点は、「皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)」に富本銭が含まれていない点です。平安時代中期までの国家鋳造銅銭12種類を指す皇朝十二銭の筆頭は、今なお「和同開珎」となっています。これは、律令格式などの古代法制において公式にカウントされた制度的貨幣の系譜が和同開珎から始まっているためであり、考古学的な鋳造年代の先後関係とは別枠の歴史用語として整理されている点に注意が必要です。
【実態検証】歴史ファンのリアルな声と考古学現場の最新知見
現代の展示施設や教育現場では、この貨幣の交代劇がどのような受け止められ方をしているのでしょうか。SNSの反応や博物館関係者の声を取材すると、知的好奇心に満ちたリアクションが浮き彫りになります。
SNS上では、「子どもの歴史ドリルを見て『えっ、和同開珎じゃないの!?』と叫んでしまった」「自分の記憶がアップデートされていないことを知ってショックを受けた」という30代〜50代の声が定期的にバズを生み出しています。一方で、「親世代に『今は富本銭だよ』と教えたら驚かれた」という現役学生の投稿もあり、古代貨幣史は世代間のジェネレーションギャップを最も実感しやすいトピックとなっています。
明日香村の展示施設を訪れる来訪者からは、「なぜこれほど小さな青銅の円盤が国家の命運を握っていたのかが、飛鳥池の展示を見て初めて腑に落ちた」という感想が寄せられています。現地で発掘された富本銭のレプリカを手に取ると、直径約24ミリ、重さ約4グラムと現代の10円玉よりわずかに小さい程度ですが、そこには律令体制へ突き進む飛鳥びとの熱気と技術の粋が凝縮されています。
【プロの結論】古代国家の貨幣戦略から見出すべき歴史的教訓
富本銭から和同開珎への移行劇は、単なる「最古争い」というトリビアにとどまりません。本質は、「国家が民衆に通貨を信用させるとはどういうことか」という経済社会学の壮大な実験プロセスにあります。
金属としての実質的価値が高い「銀」を禁じ、安価な「銅」に国家の威光を刻んで使わせようとした天武天皇の試みは、ある意味で現代の不換紙幣や中央銀行デジタル通貨(CBDC)の導入にも通じる急進的な社会改革でした。富本銭は畿内周辺での限定的な流通にとどまり、計画は途上で頓挫したと見られますが、その失敗の教訓と鋳造技術の蓄積があったからこそ、四半世紀後の「和同開珎」における全国展開へと結実したのです。
「定説が変わる」ということは、歴史学が生きている証拠に他なりません。過去の知識にしがみつくのではなく、新たな出土事実によって歴史像が塗り替えられていく過程を楽しむことこそ、現代の教養として最も価値のある姿勢です。

【富本銭と和同開珎】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:結局、入試やテストでは「日本最古の貨幣」としてどちらを書けばいいですか?
A1:設問の文脈に厳密に従う必要があります。「日本最古の鋳造銅銭」と問われれば富本銭、「708年に発行され全国的に流通した貨幣」と問われれば和同開珎が正解です。現在の教科書では、両者の役割の違いを明確に分けて出題されるため、単に「最古」という言葉だけでなく問題文の条件を精読することが重要です。
Q2:和同開珎の読み方は「わどうかいちん」「わどうかいほう」のどちらが正しいですか?
A2:学術上はいずれの読みも認められており、教科書でも併記されるケースが一般的です。最後の文字「珎」を「珍(ちん)」の略字と見る説(かいちん)と、「寳(宝・ほう)」の異体字と見る説(かいほう)の論争が続いていますが、一般社会や入試の解答としてはどちらを用いても基本的に誤りとはされません。
Q3:なぜ富本銭は全国に広まらず、和同開珎は全国へ流通できたのですか?
A3:最大の要因は、国家の法制度(律令)と推進力の差です。和同開珎の発行時には「蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)」のように、銭を一定額貯めた者に官位を与えるといった強力なインセンティブ政策が導入されました。また、平城京の造営や東海道などの官道網の整備が進み、全国の国府を結ぶ行政ルート上で強制的に銭貨を使わせる体制が整っていたことが成功の背景にあります。
Q4:富本銭の本物は一般の博物館などで見ることができますか?
A4:奈良文化財研究所の飛鳥資料館や、奈良国立博物館、東京国立博物館などで実物が収蔵・展示されています。特に明日香村の関連施設では、出土した鋳型や鋳造関連道具とともに、当時の最先端技術を物語る実物資料を間近で観察することができます。
まとめ:古代貨幣の歴史的アップデートが教えてくれるもの
富本銭と和同開珎をめぐるドラマは、日本の貨幣史における単なる先陣争いではなく、古代日本が中央集権国家へと脱皮しようともがいた試行錯誤の足跡そのものです。
7世紀末、天武天皇が富本銭によって打ち出した「通貨発行権の掌握」という野望は、25年の時を経て和同開珎という形で結実し、日本社会に貨幣経済の礎を築きました。教科書の記述が変わった背景には、考古学者たちの地道な発掘作業と、歴史をよりリアルに復元しようとする研究の積み重ねがあります。
知識を一度更新してしまえば、博物館の片隅に並ぶ小さな青銅の塊が、かつて列島を揺るがした巨大な国家プロジェクトの主役に見えてくるはずです。歴史の深層に眠るこうした事実の連鎖に目を向けることこそ、私たちが歴史を学び直す最大の醍醐味といえます。 (出典: 富 本 銭 和 同 開 珎(Yahoo!ニュース))